2017年5月11日木曜日

『アシュラ』の女性キャラクター?万人受けしない?すべて意図通り


[ 2016.09.30 ] スターニュース / チョン・ヒョンファ記者
http://star.mt.co.kr/stview.php?no=2016093008215780039

(前略)このインタビューは、映画のネタバレを含みます。

- 前作『風邪 감기』(邦題:FLU 運命の36時間)の時、あなたはサナイ・ピクチャーズのハン・ジェドク代表と一緒に仕事をしたいという意志を示した。結局『アシュラ』を一緒にやることになったが、『アシュラ』はどのようにして企画されたのか。

▶ 汚職刑事の物語を作りたかった。悪者の下手人として働きつつ、顔色を伺う人間。『風邪』の後にそんな人の物語をシナリオで書いた。ところが多くの人々の第一声が「悲観的な内容ですね」だった。一緒にやろうと言ってくれる人がいなかった。ハン・ジェドク代表だけが、こんな物語が好きなので一緒にやろうと、その代わり、キャスティングに力を注ごうと言ってくれた。

- 現在の俳優達がやるようになって、元のシナリオから少し変わった部分がある。例えばファン・ジョンミンが演じた悪徳市長は、裏表のある偽善的な人物だったが、今は完全にあくどい人物になった。また、検事役よりチョン・マンシクが演じた検察捜査官の比重が大きかったが、クァク・ドウォンが検事を演じるようになり、比重が変わっている。俳優達のエネルギーを抑えず、むしろ発散させるようにしている。

▶ ファン・ジョンミンとクァク・ドウォンは非常に優れた俳優達なので、製作に伴う快感が大きかった。スタッフと俳優達が「監督の望むとおりにしてください。我々はサポーターになります」と言ってくれた。だから望むがままにやった。撮りながら誰の話にも耳を傾けなかった。ただし、終わってから後半作業の時、一緒に作っている人々の意見を尊重して調整した部分はある。

- ファン・ジョンミンとクァク・ドウォンが熱すぎるため、相対的に主人公であるチョン・ウソンの感情が鮮明に表れていない。チョン・ウソンという俳優が持つオーラの大きさのおかげで追っていけるが、各シーンの感情が二人の俳優に覆われることもある。


▶ はて、私はそうは思っていないが、観客がそう言うならばそうなのだろう。ファン・ジョンミンとクァク・ドウォン、二人の俳優は非常に優れているが、二人は助演であり、チョン・ウソンが主演なので、チョン・ウソンの感情を追うようにしている。

- チョン・ウソンのナレーションを4回録音したと聴いている。本来は内面の独白だったが、現在の説明のナレーションに変わった()だから余計にチョン・ウソンの感情が強調されないのではないだろうか。

▶ 本来は状況に対するチョン・ウソンの内面の独白をナレーションにしていた。しかし、その部分を人々が居心地悪く感じた。もう少し説明が必要だと。より親切にすべきだと。それで、ナレーションを親切な説明に変えるために4回録音を行った。私は『アシュラ』を望む通りに作ったが、一緒に作る人々の意見も尊重すべきと考えた。

- 『アシュラ』は90年代の香港ノワールを今の韓国に移したかのようだ。ただし、香港ノワールには最後にロマン、義理といったものがあったとすれば、『アシュラ』はただ争いのみがある。それが今の韓国を見つめる監督の視線であるように思えるが。

▶ 幼少よりフィルムノワールを勉強しながら育った。自然とその影響を受けている。しかし『アシュラ』を作りながら、今の私の年齢でノワールをやり直すなら、私だけの視点が宿っているべきだと考えた。香港ノワールの情緒が嫌いなわけではないが、それをそのまま持ち込むと面白くないだろうと考えた。ナマの状態のオス達の暴力性を見せたかった。チョン・ウソンと再び組んだからそう思うのかもしれないが、1996年に私が見た韓国より、今の韓国がさらに悲観的だ。かねてより、悪者の存在を是正する善の声を希求してきた。しかしそんなものは現実にはなく、映画の中にのみある。アクションを撮っても、善の暴力が悪の暴力に勝つ時に観客は喜ぶ。しかし現実における暴力はひたすら一方的なものでしかない。それが私が見ている大韓民国の現状なのだと思う。楽観性が取り去られている。

- 強くて悪い男性達の物語であるため、女性キャラクターが機能的にのみ使われるという批判は避けられないはずだ。女性主義に対する論議が活発な最近の潮流とも合わない。

▶ 『アシュラ』の企画当初からそういった指摘が多かった。女性キャラクターが機能的だという批判だった。しかし、私がその声に耳を傾け『アシュラ』の世界にファム・ファタールを作ったり、正義を体現する女性キャラクターを作るべきかは疑問だった。この物語には全く合わないと思った。今の韓国はジェンダーの問題ではなく家父長的な人間こそが問題なのだと思っている。他人の言葉に耳を傾けない人々。自分の話だけを聞けと強いる人々。そして責任を負わない人々。そうした人々の殆どが男達だ。そんな男達が支配している。だから、そんな男達を描こうとしただけだ。それに、よく知らないキャラクターを自分で作ることはリスキーだと感じた。(女性主義の)潮流があるからといって、私のやり方を変えるつもりはなかった。構いはしなかった。

- そういった部分も評価を分けている。

▶ どうせ企画の時から、居心地の悪い気分になるという感想を聞いている。内容と方式が物々しいという感想だった。私はもっと衝撃を与えたかった。観客が楽にポップコーンを食べながら楽しむのではなく、居た堪れない気分になってほしかった。だから暴力描写、アクション演出に関しても、悩み抜いた。

- 俳優達も並外れているが、『アシュラ』における真の神の一手は、イ・モゲ撮影監督のように思える。

▶ 『風邪』からタッグを組んだ。本当に卓越としたアーティストだ。最初に『アシュラ』を企画する時、フィルムノワール風味にしたいと思った。ローキートーンに強いコントラストを加えたかった。それで事務所の片方の壁にフィルムノワールのシーンをキャプチャーして貼り付けた。しかし、見ているとその風味がオールドな感じに思えてきた。私は「マグナム」という雑誌が好きだ。報道写真を載せた雑誌。その「マグナム」で実際の事件のルポ写真を探した。その写真たちをプリントして、壁にフィルムノワールの写真と一緒に貼った。数日間そうして見つめていると、あれだけ気に入っていたフィルムノワールのシーンの数々が、実際の事件の写真に見劣りしていた。それでフィルムノワールの写真たちをすべて剥がし、「マグナム」の写真で埋め直した。そうしながら完全なオールブラックのイメージを持つ写真を改めて探した。被写体には全く光がなく、一方では光源がある写真を。報道写真は人物と背景を同時に捉えるので。

そんな作業を続けていると、ちょうどイ・モゲ撮影監督が『大虎 대호』(邦題:隻眼の虎)を終わらせて事務所を訪ねてきた。「どう撮ればいいのか」と聞かれたので、「あれを見ろ」と言った。特に説明もしなかった。するとイ・モゲ撮影監督は「どう撮るべきか分かった」と言った。空間と人物を同時に捉える必要がありそうなので、広いレンズを使いたいと話した。

撮影に入り、イ・モゲ撮影監督は、この映画はストーリーではなく人物の関係を追うので、ある瞬間からは人物に入り込む事にすると話した。そう言ってから、カーチェイスシーン以降は広角レンズで人物に踏み込んでいった。本当に最高だ。

- カーチェイスシーンも素晴らしいが、監督にとっては安置室でのチョン・ウソンとチュ・ジフンのシーンが最も良かったのではないか。この映画のムードが、一番はっきり表れている場面でもある。


▶ そうだ。一番好きだ。この映画を象徴するようなシーンだ。『アシュラ』を象徴する二つのシーンを挙げるとすれば、まさにそのシーンと、クァク・ドウォンがファン・ジョンミンに跪きながら本性を表すシーンである。

- どうしても皆殺しにするしかなかったのか。初稿では皆殺しにしているが、企画段階では生き残る者と殺される者が異なる様々なバージョンが存在していた。


▶ 悪者は全員死ぬべきだ。少なくとも『アシュラ』の世界ではそうだ。立ち向かって戦えるとすれば巨大悪ではない。先程も話したが、善の暴力と悪の暴力が戦って善の暴力が勝てば、人々は喜ぶ。しかし現実でそんなことは起こらない。暴力は一方的なだけだ。『アシュラ』では、暴力を使った人は他の人から同じ暴力を受ける。暴力が受け継がれ、暴力に蝕まれる。暴力的な社会とは、暴力が支配する社会の事ではない。関係が暴力的な社会だ。私は『アシュラ』でそれを見せたかった。

- 移住労働者をああいうふうに描写したことも、不快さを与えるかもしれない。

▶ 『アシュラ』の背景となるアンナム市は、私なりに作ったゴッサムシティだ。世紀末の無国籍都市を作りたかった。移住労働者らは、現在の大韓民国で都市貧民になりつつある。梨泰院と安山を取材する過程で、彼らが搾取と蔑みを受けている場面を多く目撃した。そのため『アシュラ』では彼らを違う姿で扱うより、自然に表す方がいいと考えた。

- アンナム市は仁川や釜山に似ている。なぜ実際の都市の名前を使わず仮想都市を作ったのか。

▶ 『アシュラ』自体が虚構の物語だ。フィルムノワールで最も極端かつ誇張された物語だ。だから私だけの『カサブランカ』、私だけの『チャイナタウン』が必要だった。それに、韓国は都市を掘り返す事により作られている。その過程で人々も一緒に掘り返されている。その掘り返される瞬間を収めたかった。運のいいことに、サナイ・ピクチャーズにはそういった場所に関するデータが多かった。そんな場所を探し当て、映画の中で逆説的に現実性を取り除こうとした。

- チョン・ウソンが『アシュラ』で初めて登場する際、瞳が絶えず左右に揺れている。映画の中でそんなチョン・ウソンを初めて見た気がする。とても印象的だ。

▶ 撮る前からチョン・ウソンを地獄に放り込むと決意していた。すでに人々が知っているチョン・ウソンをすべて消し去ることを求めた。そうすると現場でチョン・ウソンが「捨てろと言われて何もかも捨てたのに、次から次へと新しいことを要求しすぎだ」と言った。とても苦しんでいた。私にはそんな状態がむしろ喜ばしかった。映画の中の人物にぴったり合致した。

- ファン・ジョンミンはどうだったのか。

▶ ぜひとも一緒に仕事をしたかった俳優だ。しかし『アシュラ』に取りかかるまで、会って話をする時間があまりなかった。あの時のファン・ジョンミンは、自らが製作と演出を手がけるミュージカル『オケピ』が公演中で、『ヒマラヤ』のプロモーションを行いつつ、『検事外伝』の後半作業も同時に進めていた。だから密かに映画に集中できるのかを心配した。しかし撮影に入ると、うわぁ…ファン・ジョンミンは優れた俳優でもあるが、傑出した映画監督のようだった。ファン・ジョンミンにすっかり惚れてしまった。

- 監督の最初の意図と異なるファン・ジョンミンの解釈は気に入ったのか。

▶ ファン・ジョンミンだけの解釈ではない。私はこの人がアンナム市の天辺、頂点であることを願った。別のバージョンではこの人よりも上の人がいるという設定が存在したが、これで正しかった。ファン・ジョンミンは私の構想をより素敵に描き出した。何人かの政治家の写真を、イメージとして参照するようにとファン・ジョンミンに渡した。韓国と日本、台湾の政治家の写真だった。後で見ると、その姿がファン・ジョンミンにそのまま宿っていた。撮影初期にはファン・ジョンミンの髪が短く、カツラを被っていた。そのように細かいディテールにも拘った。

- クァク・ドウォンは、『犯罪との戦争~悪いやつら全盛時代~』(邦題:悪いやつら)で、すでに悪徳検事役を務めている。同じ姿を演じるということは、俳優にとっても、監督にとっても、悩ましい事だったのではないか。

▶ だからこそクァク・ドウォンはやらないと言っていた。しかし、私のクァク・ドウォンに対する気持ちは一度もブレたことがない。クァク・ドウォンを初めて見たのは短編映画だった。障碍者を撮るドキュメンタリーPDが、劇的な場面を演出しようとあれこれと手を尽くす内容だった。クァク・ドウォンは素晴らしすぎた。彼に会わなければならないと思った。クァク・ドウォンは『アシュラ』の中の検事の卑屈さと益体のなさを、とても上手く表現してくれるだろうと思った。絶えず提案をした。そうすると二ヶ月が経つ頃に、やるという連絡が来た。すでに他の俳優のキャスティングは完了した状態だった。嬉しすぎて2ヶ月かけて飲む分の酒をその日のうちに全部飲んだ。俳優達を全員呼びつけて飲んだ。クァク・ドウォンは来てもいなかったのに。俳優達から、われわれをキャスティングした時はここまで喜ばなかったのに、とすら言われた。まあ、しかし、クァク・ドウォンが決まったことで、私が考えた『アシュラ』の中のパズルが完成したのだから、嬉しすぎた。

- チュ・ジフンは、監督として一番の喜悦を感じただろうと思う。シナリオでは、ありがちで見え透いた人物だったが、チュ・ジフンがとても上手く活かしていた。

▶ チュ・ジフンは天がもたらした贈り物だ。皆、大先輩なのに、時が経つとチュ・ジフンにデレデレするようになっていた。チョン・ウソンがあそこまで気にかける後輩は見たことがない。(チュ・ジフンは)頭が良いのだ。計算ずくというわけでもない。チュ・ジフンは見かけ上はやんちゃそうだが、実は内気だ。しかし何をどうすべきかが分かるのだ。

最初はチュ・ジフンに、何度もタフにやれと、「タフ、タフ」と注文を付けた。私がディレクティングを間違えたのだ。最初は満足のいく演技ではなかった。しかしチョン・ウソンと一緒に廊下を歩くシーンを撮る時、自分達で好きにやってみると言い出した。その時、何回もテイクを重ねたが、そのたびに微妙な部分を正確にキャッチして演じていた。そのシーンを見て悟った。ああ、彼は何かをやらせるのではなく、好きにさせるべきなのだと。イ・モゲ撮影監督とハン・ジェドク代表も、チュ・ジフンはただやりたいようにさせた方がいいだろうと話した。

- チュ・ジフンとチョン・ウソンが市場でご飯を食べるシーンから、チュ・ジフンの変化が如実に感じられた。

▶ そうだ。『アシュラ』の殆どを時間順に撮っているが、そのシーンはキャスティングの都合で同じ日に撮った。序盤のチュ・ジフンが純粋だった時と、変わり始めた時、それぞれの食事シーンだ。感情を説明すると、チュ・ジフンは「分かってます。ウソン兄さんと上手くやります」と言った。それで序盤のシーンを撮り、夕方に後半のシーンを撮った。その時、チョン・ウソンのバックグラウンドはシンプルだったが、チュ・ジフンのバックグラウンドは、あれこれと気にすることが多かった。ところがチュ・ジフンは、チョン・ウソンの心臓に舌先で触れたことがあるような表情を浮かべた。私はあなたの心の内が分かると言っているような表情を。鳥肌が立った。後でスタッフ達は「チュ・ジフンの表情が九尾の狐のようだった」と言っていた。

- 『アシュラ』の中の多くの要素は90年代の新しい活用のようにも思える。進化といえば進化であり、お馴染みといえばお馴染みだ。音楽もそうだ。

▶ 仕方ない。それが私だ。

- 『アシュラ』公開後に、嬉しかった感想や、嬉しくなかった感想があっただろうか。

▶ あるポータルサイトに「キム・ソンス、もう映画を作るのはやめろ」と書かれていた。それが一番気に入った。これからも映画を作り続けるのだから、返って力が湧いた。

- 次回作は?またハン・ジェドク代表と手を組むそうだが。

▶ まだ構想中だが、扱いたい物語がある。いつか必ず戦争映画を作りたかった。ベトナム戦の物語だ。ベトナム戦に参戦した韓国軍には捕虜が存在しない。死亡者と負傷者は存在するが、敵に捕らわれた捕虜はいないと発表されている。あり得ない話だ。物語はそこから始まる。