2017年7月11日火曜日

熱い問題作『アシュラ』キム・ソンス監督に会う (1/2)


[ 2016.10.09 ] EXTREME MOVIE(インタビュー日時:2016.10.05)
http://extmovie.maxmovie.com/xe/14770683

このインタビューは、映画のネタバレを含みます。

(前略)

ようやく会うことができて嬉しい。我々はジャンル映画を好きな人々が集まったエクストリーム・ムービーというサイトだ。

有名なところだと聞いている。(一同笑)

映画はすでに公開中で、少し遅れてインタビューを行うことになったが、『アシュラ』に対する観客の反応が極端に分かれている。これをどう思う?

お腹がいっぱいだ。悪口を言われすぎて。(笑)

今年の韓国映画の中で『アシュラ』は『哭声』『密偵』に並んですさまじく強烈だった。非常に好ましく思ったが、他の観客の反応はずいぶん違っていたので我々も戸惑った。観客の好みが変化したのかとも思った。

観客がただただ喜んでくれるだろうとは思わなかった。しかし、内部試写の反応と比べてもずっと酷評されているので、「私が何か間違えただろうか?」と思っていたりする。

映画の賛否が分かれているようだが。

嫌っている反応の方が多い。

インターネットの特性上、好む側はあまり表現をしないが、嫌がる人の反応は目立って見えると思う。

それでも感じる。今日は日差しすらも私を避けているようだ。(注:非常に晴れやかな天気だった)予想した反応ではないが、人々は私を好きじゃないということを感じた。

だが、支持している人々もいるので、こうしてインタビューを要請する事になった。(笑)

映画界に長くいたため、周りの人々も私と好みが似ている人々が集まっているようだ。ずっと昔から親しい友達、または後輩達だが、彼らから、これまで一度も聞いたことのない賛辞を受けた。それで誤解をしたのかもしれない。メディア試写会の後の否定的な反応を耳にして、周りの反応だけを信じすぎたように思えた。

広報、製作を行った側にとっては観客の反応が重要だと思うが、我々は『アシュラ』を肯定的に見ている。慰めになるかどうか分からないが、今までエクストリーム・ムービーがインタビューした監督達も、何故だか一番悪口を言われている時期に出会った。『タチマワ・リー』(2008)のリュ・スンワン、『マザー』(2009)のポン・ジュノ、『悪魔を見た』(2010)のキム・ジウン。この3人の監督も全員インタビュー当時は意気消沈していたが、我々は支持しており、幸い、その次の作品で観客から肯定的な反応を導き出した。

『マザー』(邦題:母なる証明)も反応が悪かったのか?あの映画は韓国映画界が生んだ傑作だ。

初公開当時はそうだった。

当時、外国に行っていて遅れて『マザー』を観たが、私に出来得る最大の賞賛を捧げた。

『アシュラ』も時間が経つと認められ、次の作品で上手く行くこともあり得る。

(笑)映画が公開中なので、まだ何とも言い難い。あえて説明するなら、私は元々ポジティブな性格だが、『風邪 감기』(2013)を終わらせてうつ病のような状態になった。あの時の憂鬱な考えが『アシュラ』を作る原動力となった。

人々は祝福されたプロジェクトであり、華々しい道を歩いてきたと思うだろうが、作る過程では決して一筋縄ではいかなかった。『風邪』のつらかった時間のおかげで作ることができたので、『アシュラ』に対する私の個人的な満足度はとても高い。時が経っても、再び取り出して観ることができる映画に仕上げた。

しかし、私個人の満足で終わっていいものではなく、参加してくれた製作、投資者の仲間達も満足してほしいと願う。『アシュラ』という船に何の心配もなく乗り込んだのではなく、リスクにも関わらず私を信じて乗船してくれた者達だ。私は船長として彼らがやりがいを感じる航海をすべきだったが、そうできなかったようで申し訳ない思いだ。私はそういった感情を上手く表現する性格ではない上に、その人々は私に大丈夫だと言ってくれているので、余計に胸が痛む。

『風邪』(邦題:FLU 運命の36時間)は10年ぶりに演出に復帰した映画としては、興行成績はよかったと思う。(注:全国観客 約312万名)

そこまでよくはなかった。損益分岐点は超えたが、映画の外的な問題が色々とあった。

キム・ソンス監督のフィルモグラフィーを振り返ってみると、初期短編演出作『悲鳴都市』(1993)が思い浮かんだ。あらすじ的に『アシュラ』と似ている感じがする。

私もびっくりした。『アシュラ』撮影中に現場で編集本を観た後輩監督が『悲鳴都市』の話をしたので、考えてみると、本当に似ていると思えた。人は特定のものから抜け出せない、そういうところがあるようだ。他の人々がたまに私の映画に関して話すが、私は過ぎ去った映画はほとんど思い出せず、振り返って検証することもしない方なので、思いも寄らなかった。

『アシュラ』はかつてキム・ソンス監督の全盛期の感じがしてよかった。

感謝する。

最後まで余所見する余地がないように作った

『アシュラ』はほぼ休む暇を与えずに駆け抜ける映画だ。まるで走る列車に乗り込んだように。その列車の速度をどこまで想定して演出したのか?決して遅い速度ではなかったと思うが。

『アシュラ』はオープニングから人が墜落死する。その時から映画が終わるまで余所見をする暇がないようにしたかった。最後の葬式にキャラクターをすべて押し込めて皆殺しにするまで、塵ほどの隙間も与えたくなかった。撮影時も編集時もそのことに関する心配をされたが、何だか、そのようにしたかった。

観客達はそれをとても嫌がっているようだった。(笑)休みを与えず走らせたくて、人物をすべて悪に属するように設定したのか?

必ずしも悪に属することを意図したわけではない。「悪人達の地獄図」というのは広報チームが映画を観て見つけ出した表現の仕方だった。私は善悪の区分がないものが好きだ。黒澤明、サム・ペキンパー監督の映画を狂的に好きなのだから。そういった監督達のフィルム・ノワールを観て多くの影響を受けたため、ぜひそのような映画を作ってみたかった。差別化されるように、私だけの特色も込めて。

古典ノワール名作達は通常、その時代の産物だ。大恐慌時代、もしくは世界大戦の寸前など…

『アシュラ』のために調査をしてみたが、韓国にはマフィアがいない。その代わり、わが国では合法的な武力集団が犯罪を犯すのだと思った。武力や強制力を持つように国民が合意してくれた集団、すなわち国家や軍隊、司法機関があまりにも肥大した権力を持っているため、ゴロツキや犯罪者達は手も足も出ない。私が考えた犯罪の都市、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アンナム市」を背景に、彼らを悪党として登場させればよいと思った。

それで政治家、検事、警察などが出てくるのか?

『アシュラ』では政治家が政治を行わず、検察が法の執行を行わず、警察も警察の仕事をしていない。他の者が犯罪を犯すように裏で操っている。そのように設定すると、面白く、説得力も出るだろうと思ったが、いざ作ってみるとそう考えたのは私だけだったようだ。犯罪組織を扱うよりも観客に寄り添いやすいだろうと思ったが、それはあり得ないと思われているようだ。

この映画をノワール的な視覚で書いた批評が今のところほとんどないが、ファン・ジンミ評論家がそういった解釈で好意的に書いてくれた。

私が描きたかったのは、善悪の区分とは関係なく人物達が死に向かって駆けていく姿だった。その点を鋭く指摘してくれた。その批評を(サナイピクチャーズ)ハン・ジェドク代表に見せてあげると、「この人は俺達の話を聞いていたのか?」と言いながら驚いた。私とハン代表が交わした無駄話が『アシュラ』の骨となり、肉となった。それが映画にすべて表現されたわけではないが、どうやってその考えの根っこを見つけ出したのやら。最後の葬式のシーンが映画の始まりであり終わりだ。人物達をそこにすべて押し込み、自分達同士で戦って破滅することが観客に何らかの面白みを与えるのではないかと思ったが、ここまでウンザリされるとは。

「HELL朝鮮」の風刺との話もあるが、現在の韓国よりは、かつて7~80年代の新都市建設時に繰り広げられたことを映画の中で再現したかのようだった。

映画の背景となるアンアム市は、私が経験した70年代末から80年代の情景をモチーフとしている。映画にスマートフォンなどが出てくるものの、俳優達の髪型や、衣装のスタイルもあの時代を思い出させるように意図している。当時、再開発という名目を掲げて「われわれも裕福になれる。わが国もよくなる」と言っていたが、私が直接見て経験したことは違っていた。近頃、長官が新たに任命されると、過去に不動産投機を行ったことが露わになることがあるが、私からすれば、あまりにも自然な成り行きだ。権力者のみならず、区役所、住民センターの末端に至るまで、揃ってむしゃぶりついたのだから。公然と組織的かつ広範囲に行われた韓国の犯罪といえる。そのような事実が突き止められるケースはただの一度も見たことがない。彼らが正義の味方達によって罰せられることもなかった。今も、これからも、長い間、見られそうにない。(笑)ただ、映画でそう描かれているように、その内部で自分達同士で戦い、壊滅するケースは見たことがある。

悪者の言うことに耳を貸すな

黒澤明監督の映画の中に『悪い奴ほどよく眠る』(1960)という映画がある。その題名のように、悪党ほどのうのうと暮らす姿を風刺的に見せることもできたはずだが、『アシュラ』ではすべて壊滅する。それが監督の願いなのか?

私の欲望だ。私の好きな犯罪映画では主人公が勇気を出して巨大悪と戦うが、悪と表現するほどの相手なら、とても手の出しようのない存在のはずだ。いっそ、その下で卑しく下手人、子分の役回りをしていた人が、あちこちに蹴り転がされたあげく、相打ちの形で自滅する道しかないのではないか。

(現実では)自滅するより、言うことを聞かないべきだと思ったりした。悪者達に対して従順すぎてはいけないと。(チョン)ウソンにも似たようなことを話したことがある。私も少しは反抗心があった10代~20代を経て30代中盤になった時だったが、私より若い子達に「クソみたいな世の中だろ?大人達は勉強をしろと、悪いことをするなと言うが、自分達からして勉強はせず、やりたい放題している」と。ところで、その子達もすでに全部分かっていた。そのような子達の立場から反抗心を焚きつけようとしたのが『ビート』(1997)だった。

私の世代は今のような世の中が訪れたことに連帯責任を負うべきだが、『アシュラ』に出た40代中盤の者達は反抗心を持つべきだ。パク・ソンベ(ファン・ジョンミン)、キム・チャイン(クァク・ドウォン)、二人だけ残った時、呆れるような話を交わすだろう。あのような者達の話に決して従ってはならない。だが、従わなければ食い扶持が得られない…だとしても自分を突き通し、共に崖の底へ落ちる覚悟を見せれば、消極的な復讐かもしれないが、私達にできる最善ではないだろうか。映画ではそれが虚しく見えるかもしれないが、一般的な他の映画とは違った快感を与えるだろうと考えた。(観客は)なぜそれを感じられないのだろう?(笑)

他のギャングスター、ノワール映画には女性キャラクターも多く登場する。ファム・ファタールといったふうに。しかしキム・ソンス監督の映画は女性が多く登場する方ではない。ひょっとして男兄弟しかいない家で育ったのか?

うちの家系には女がとても多い。(笑)それは私が上手に描写できない領域だと思う。映画『無頼漢』が好きで何回も観たが、私はあんなロマンスのある映画は作れそうにない。男女が互いに騙し騙され、愛する一方で裏切る話。誰かが書いてくれれば撮れると思うが。(笑)

幼い頃、主に男の子達と仲良くしながら育った。町のゴロツキ、ヤンキーの兄貴達が格好よく見えたからその背中を追ったりもしたが、実はそんな人達には義理なんぞクソほどもない。(一同笑)その集団の中でも良い兄貴達はすぐに離れて行く。「ここも社会と同じだな。むしろもっとクソ野郎どもだ」と感じた。そのため、そういったゴロツキ達に対する幻想を持っておらず、彼らを格好よく描いてみようという意識が、私にはない。

私は維新時代に中学・高校を通い、反共教育を受けた世代だ。周りの兄貴、姉貴達がそういった体制を批判する話はよく耳にしたが、結局、私達が嫌っていた人々に似ながら成長したようだ。私もそのような人々の一員であり、下手人であり、突っかかれない人だったが、その野郎どもがクソ野郎どもであることはちゃんと分かる。そんな男達が作っておいた枠、連帯のようなものが非常に堅固に、細かい網の目のように張り巡らされている。今回の映画に、私のそのような現実認識が介入したようだ。

チョン・ウソンとは幾度も手を組んでいるが、映画では彼の相手役の女性キャラクターは、主に男性の安息の場として描写されている。

私にそういった古めかしい考えがあるようだ。男性が戦場で戦って疲れて帰ってきた時、彼の愛する女性が、寄り掛かり、休める安息の場になってほしい。といった女性像のことだ。

普通、ノワール映画ではナレーションをする人物は死を迎える。『アシュラ』でナレーションをするチョン・ウソンは、あるいは死なないかもしれないと最初は考えたが、最初からチョン・ウソンの顔に傷が付いてるのを見て、死ぬかもしれないと考えた。傷付いた彼の顔が、この映画の地図のように見えた。

面白い表現だ。

立派な顔に傷が付き、地図が壊れるように感じたが、彼の顔がクローズアップされるたび、傷が徐々に増えていくのを見ながら、結局、死ぬだろうと予想した。

私の考えと似ている。初期シナリオでは別のシーンとナレーションがあった。ハン・ジェドク代表は、まさにそのナレーションのせいで映画を作ることを決めたと言っていた。ハン・ドギョン(チョン・ウソン)が後輩刑事と一緒に葬式バスに乗って移動する場面だ。ハン・ドギョンがナレーションで「人は誰もが死ぬ」と言う時、ファン班長(ユン・ジェムン)の遺影写真が映る。それから「この兄貴も、俺のせいじゃなくても、いつかは死んだはずだ」と、自らの責任を回避する態度を示す。

そして1ヵ月の時が流れた後、最後の場面でハン・ドギョンが「俺は今日死んだ」と話す。最初は自らの責任ではないと言ったが、誰かを死に至らせた報いとして自らも死ぬのだ。映画の始まりと終わりがすべて葬式場であることが、最初に計画した構造だった。

実力派俳優達との幸せだった作業

『アシュラ』はポスターに有名な俳優が群れをなして出てくるので、観ない選択肢はなかった。しかも、映画の序盤にユン・ジェムンまで登場して驚いたが、出てきたとたん死んでさらに驚いた。ユン・ジェムン俳優は残念に思わなかったか?

彼はハン・ジェドク代表と友人だ。映画の冒頭に印象的な俳優が悪者として出てきていきなり死んでほしいと話すと、ハン代表が電話を何通か回してすぐにキャスティングした。ハン・ジェドク代表と一緒に働く俳優達は、映画がヒットしようがしまいが、消費されたとは思わないようだ。

ハン代表のおかげでこの映画を作ることができた。最初は「私の好きに撮るからあなたは私を守る屏風になってくれ」と言ったが、彼は「私に任せろ。有名な俳優でこの映画を囲い込めばいい。そうすれば誰も矢を撃てなくなる」と言った。それからファン・ジョンミンがキャスティングされると、他の俳優達も出演すると話すようになった。そんなふうに私を信じて、楽しく撮ったというのに。(笑)

チョン・ウソンの重病の妻として出てくるオ・ヨナは、一人だけ離れて病室で演じたのか?

それで疎外感を多く感じたらしい。「監督。男同士ばかりつるんでますね」と言いながら。(笑)まるでお兄ちゃんが友達同士で遊ぶところに妹を連れて行かないように。男同士、5人でがっちり組んでいたが、その集いをファン・ジョンミンとチョン・ウソンが上手く率いてくれた。チョン・ウソンは権威意識を持たない人だが、自然と権威が立つ兄のような存在だ。まるで他人を思いやるために生まれたようだ。品性がハイクオリティだ。(一同笑)

「棒切れ」(訳注:麻薬注射の意)役のキム・ウォネ(σ)に対する観客の反応が良い。

キム・ウォネはファン・ジョンミンの推薦で会った。最初は「なぜ私にこの人に会えと言うんだ?」とため息を吐いた。(笑)私が考えたキャラクターのイメージとあまりにも違ったからだ。それで形式的なミーティングで済まそうと思ったが、話す方式のようなものが違っていた。思わず傾聴するようになったし、4回にわたって会ったが、その4回の出会いがすごく特別だった。

「監督がお望みの役割は何ですか?」と私に質問をしたが、包括的な話ではなく、細分化させて、まるでレンガを積み上げるように話した。私が考えたイメージとは違っていたが、ある瞬間からその話に耳を傾けるようになった。ある日、髪を短く刈って現れたが、その時ちょうどミーティング場所であるハン代表のオフィスがものすごく汚かった。映画の中と同じだ。(一同笑)そこの階段に立たせて写真を撮ってみると、「棒切れ」役にぴったりだった。演劇経験の多い人なので、教科書的にキャラクターを分析して見つけていった。

そうやって本来考えたイメージと違う人物をキャスティングするのは珍しいことなのか?

そうだ。一緒にキャラクターを見つけていった。元々はガタイが大きく強靭なイメージだったので、「ウォネさん、ごめんなさい。まったくそういうイメージじゃないんです」と言ったが、彼は自分にできることをやってみると言い、徐々に映画の中のあのキャラクターを完成させていった。その過程が本当に面白かった。私の予想とは違う道へ進んだことが幸せで、彼ともう一度作業がしたいし、他の俳優と働くときも、その方法どおりにやってみるとよさそうだった。

SNLでコミカルに登場したのでコメディアンのように思われているが、他の映画でもサイコの演技が背筋が凍るほど上手かった。(笑)

実際はとても真摯で品のある人だ。

→ 熱い問題作『アシュラ』キム・ソンス監督に会う (2/2)へ続く

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