キム・ソンス監督は、なぜ阿修羅場を繰り広げたか…ブーメランの逆説
(2016-10-13)*以下のインタビューは、映画のネタバレを含みます。
Q. 公開初期から観客の反応が熱かった。良い方でも、悪い方でも。
A. 予想したとおりだ。当然、反応が分かれるだろうと思っていた。
Q. 『武士』以来、初めて自分で書いたシナリオで演出を行った。
A. デビュー作『ラン・アウェイ』や『ビート』、『太陽はない』は脚色のみ行い、『武士』は自分で書いた。それから久方ぶりだ。
Q. 『アシュラ』のどこに刺さったのか?
A. ノワール映画をやりたかった。このジャンルの映画はとても多いが、作るなら新しい映画にするべきだと考えた。悪者だけが出てくる映画にしたかった。普通、犯罪アクション映画で下っ端は少しだけ出てきてボスの後ろに隠れ、一撃で死ぬようなことが多い。なぜあんな生き方をするのだろうと思ってしまうが、そんな姿が私達の姿ではないだろうかと思った。そんな人々の一人を中心に据えてはどうだろうか。そうすればフィルムノワールというジャンルの中で普遍的価値、私達の現実を投影できそうだと考えた。また、悪人のみが出てくるお話を作るのも面白いだろうと考えた。それを躊躇していたのは、善なる人が不当な者に立ち向かうわけでもなく、正当な暴力を掲げて勝利する構図でもないため、果たしてこの映画に投資する者がいるだろうかという心配があったからだ。
Q. ならば製作会社サナイ・ピクチャーズに出会えたことは天運だっただろう。
A. そうだ。おそらくハン・ジェドク代表に出会えていなければ、最後まで胸の中に秘めていただろう映画だ。『風邪』(邦題:FLU 運命の36時間)を終わらせて、より遅くなる前に私のやり方の映画を作りたいと思った。しかし皆、映画化するのは難しいだろうと話した。そこでハン・ジェドク代表がシナリオを読むと「面白そうですね?これ、やりましょう」と言った。
Q. しかも凄まじい俳優陣が揃ったのだから、プレッシャーもかなりのものだったはずだ。
A. 家内もキャストを見ると「こんな俳優でこんなものを撮るの?直して」と言った。天がくれた機会なのだから、より慣習的で大衆的な映画を作るべきではないかという考えがしばしよぎった。一方では、このような俳優が付いたからこそ、このような映画を作ることが可能だとも考えた。この人達が出てきてこそ、少しでも多くの観客が観るであろう映画なのだから。神が私に与えた祝福と考えた。
Q. 映画の主な舞台であるアンナム市はどうやって作られた?安山と城南を合わせた都市のように思えた。
A. アンナムは都市貧民の集う地域の印象を与えたかった。過去の匂いがする、衰退した、不敗した都市に感じさせたかった。また、ソウルに付いている衛星都市であってほしかった。ソウル近郊の立ち遅れた都市なら何という名前にするべきだろうと考えた。実際の都市を組み合わせて作ってみたりもした。アンナム市というところは存在しない場所だが、「どこだか知っている」という人が多かった。存在しないが存在していそうな、類似記憶を刺激する場所という点において、名前を上手く付けたと思った。
Q. いかにしてそんな空間とイメージを掴んだのか。
A. ソウルで生まれ育った私が経験した70~80年代は、凄まじい開発ブームが巻き起こった。少しでも立ち遅れた地域なら、壊し、掘り返し、新しい建物とアパートを配置した。そしてしばらく経つと開発不正に関するニュースが流れたりした。私が見てきたそういった見慣れた風景をアンナムという場所に展開させれば、都市をめぐる暗闘を演出できるだろうと思った。
Q. アンナム市の極端な状況と暴力の過剰さが非現実的に思えるという指摘もある。
A. 常にこういった物理的暴力と極端な状況が発生するわけではないが、私達の社会ではより悪どい人々が動いている。国民の事をまったく考えない者達が口先だけのことを言うケースを、ニュースでも多く目撃できるではないか。
Q. 検索、警察、政治圏の描写が事細かになされている。取材過程が気になる。
A. 地方支庁勤務者、現職警察、副市長と市長、それらの随行秘書、地方都市の土建勢力、実際のゴロツキ、建設会社の社長など、様々な人々を紹介してもらい、会ってみた。二人の刑事に手伝ってもらい、元検事の弁護士、現役検事にも会った。ただ、検事は発言に慎重だった。警察からは、『不当取引』(邦題:生き残るための3つの取引)のときにリュ・スンワン監督を助けた刑事を紹介してもらった。
Q. 葬式シーンのために駆け抜けてきた映画のように思える。まさに生々しい地獄の再現だった。
A. 私達の映画を一箇所に凝縮させた空間だと思う。秘書室長の葬式場だが、それにより核心となる人物が一箇所に集まり、凄まじいことが繰り広げられる。多くの会議とリハーサルの末に完成したシークエンスだ。
Q. 重点を置いたポイントは?
A. この映画の中の路地や道はほとんどが狭く、薄暗い。迷路のような路地の数々を抜けてたどり着く場所が葬式場であるべきだと考えた。葬式場はセットを組み立てて撮ったが、あえて窓を設けなかった。俳優達すら、撮影中に密室恐怖症になりそうだと言って苦しんだ。その姿を見ながら「私は上手くやっているようだ」と思った。(笑)人物達を地下の密室に押し込んでこそ、ここが世界の果てだと思い、自らの主にも噛み付ける状態になると思った。そこは私達の映画の終着点であり、映画冒頭の行為を繰り返す空間である。自らの悪行のブーメランを受ける場所。悪人達が懲らしめられ、彼らの腐った魂が消滅し、鎮魂曲が奏でられる空間にするために、全てのセッティングを行った。
Q. 一方、葬式場シークエンスは残虐すぎて暴力を展示しているという批判もある。撮影時、このような視線への懸念はなかったか?
A. なかった。私はもっとやりたかった。アクション映画監督して、暴力シーンを撮るときは観る者に通快感を与えるべきだと思う。そうするには主役の感情は極大化させ、やられる相手の人格や表情は消して撮らねばならない。暴力の暴力性を取り除いてこそ、楽しい見物と思うことができる。私は暴力シーンで観客に血が飛ぶ感覚を与えたかった。観客を楽にさせてはならないと思った。
編集時に、音響も普通のアクション映画で出てくる音は一切使わず、いろんな音を組み合わせて、聞いたことのない音を作って使った。観る者をゾッとさせ、居心地悪くさせるべきだった。この映画は悪行と暴力に関する映画だ。この悪の都市において、支払いや取引は暴力という貨幣を用いて行われる。この人物達が皆、一種の暴力的な主従関係、脅迫関係、対立関係をなしている。ジャンルの特性上、描写の仕方が勝負を分かつだろうと考えた。だから最大限に追い込んだ。
Q. 暴力の程度や感情の過剰さに同意できない部分もあるが、シーン自体の完成度においては凄まじかったと思う。カーチェイスや葬式場のシーンは特に、ハリウッドでも涎を垂らして欲しがりそうな撮影方式と完成度だった。
A. ハリウッドの方は喜びはしても使いはしないだろう。人の無意識を悪意的に扱えば居心地が悪くなって当然だ。この映画に極度の反感を示す人々は、あるいは私の意図に引っかかったのだと思ったりもする。その方々もひょっとすると時が経ち、暴力の残影が消えた後は、違う感じ方ができるかもしれないと思う。
Q. 具体的には?
A. 誰もが、心の中に悪魔の影が差しているのだと思う。それは深遠に横たわっているので、表に出さずに済めば幸せなことだが、それがうごめくと巨大なヘドロを巻き起こす。人間のあらゆる欲望は自分が所有してはならないものへの過度な執着からもたらされる。望むものを手に入れるために、あまりにも自然に暴力を行使する者達がいるが、そうしていくとパク・ソンベ(ファン・ジョンミン)やキム・チャイン(クァク・ドウォン)のような人となるのだ。この映画が見せるそういった部分について、いつかは共感してもらえるのではないだろうか。
Q. この映画はメッセージを与える映画ではないと思う。ただ地獄を見せてくれるだけだ。
A. そうだ。私は教訓を与える映画が嫌いだ。説教する映画を嫌うためそうはしなかったが、人物配置を通じて逆説を語りたかった。自分だけが正しいと、自分の信念にのみ従えという人のために世の中が滅びゆくということを話したかった。自分に陶酔している人物は口では人の言葉に耳を傾けるように見えるが、決して人の言うことを聞かず、過ちを自ら認めたりもしない。
私が最初に『アシュラ』のシナリオの題名を『反省』と銘打った理由は、反省しない人物達が出てくる話だったからだ。唯一ハン・ドギョンのみは反省し、後悔する。自発的な悪人ではなく、最後には反省をするので、彼は半人半獣である。
Q. あなたの作った『ビート』と『太陽はない』は当代で最も若々しい映画だった。それから20年が経った今も『アシュラ』のようにマグマのような映画を送り出せる秘訣は何なのか?その若々しい感覚の秘訣は?
A. 若々しいとは、老い先が短いのに…はは。本気でそう見てくれたなら、私が良いスタッフを使ったからだ。能力のあるスタッフを使い、上手くやれと責め立てればいい。(笑)監督は姑だ。
Q. 突拍子のない質問だが、『英語完全征服』(2003)はどうして作ることになったのか?当時、キム・ソンス監督が好きだった一人の観客として不思議でならなかった。もちろんその映画は劇場で観た。
A. そうか?ありがたい。その映画は、私が作ったナビ・ピクチャーズという会社で準備していた映画だった。『達磨よ、遊ぼう』を作ったパク・チョルグァン監督が演出することになっていたが、撮影前に「できない」と言ったのだ。他の映画の準備をしたいという人に無理にやらせるわけにはいかなかった。急いで監督を探そうとしたが、私達が希望する監督とは話がつかなかった。投資会社が「(キム・ソンス)監督がやるしかないんじゃないですか」と言ったので、責任感から私が演出することになった。
Q. キム・ソンスとはまるで似つかわしくない映画だったが、想像もつかなかった変身という意味では面白かった。
A. 映画はコケたが、本当に楽しかった。コメディー映画は現場でも本当に面白い。あの当時は本当に楽しく撮ったが、不思議なことに映画が終わってみると思い出せなくなっていた。あの当時に感じた雰囲気もよければ、スタッフとも和気藹々に笑い合いながら撮ったのだが、苦労をしなかったからだろうか。幸せとは何気ないものだなと思った。
Q. 振り返ってみると、長くつ下のピッピのようなスタイルで英語初心者を演じたイ・ナヨンの変身にも驚いた。
A. そうだ。宇宙人のような俳優だ。見た目もそうだが、行動もぶっ飛んだところがある。しかも本人もそれを知っている。「監督、わたし、宇宙人みたいだと思いませんか?」こんなこともよく言っていた。先日、ウォンビンさんと結婚したという知らせを聞いた。お祝い申し上げたい。
Q. 『武士』(2001)以降、『風邪』(2013)までに何と12年間も演出の空白期間があった。その時間はどう過ごしていたか?
A. 韓国芸術総合学校の映像院にて3年間教鞭を執り、中国で映画会社を設けて中国映画を企画し、作ったが、大コケした。その過程で感じたことは、私のような人は教授をやってはならず、事業をやってはならないということだ。もちろん、それと同時に映画の準備もしたが、いろんなものを同時に上手く進行させることができなかった。
Q. 『風邪』もやや意外な選択に思えた。
A. これからは映画演出だけをやりながら千万監督として復帰しようという覚悟で臨んだ映画だが、多くの努力をしたものの上手くいかなかった。その映画を通じて、私に実力がないということを痛感した。
Q. わざと自身を過小評価しているように思える。私達の時代においてあなたは最高だった。『ビート』は今でも多くの人が挙げる最高の青春映画だ。
A. 『ビート』の公開当時は人々がそこまで熱狂しなかった。人々はウォン・カーウァイの真似事をしていると批判したりもした。ところが公開から6ヶ月ほど経つと反響が起きた。気が付くと私は有名人となっており、コ・ソヨン、イム・チャンジョンと芸能番組に出たりもした。周りの映画人達は「お前がどうしてテレビに出てるんだ」と文句を言った。(笑)
Q. デビュー作『ラン・アウェイ』(1995)はやや失望を感じる作品だったが、『ビート』を作るまでの2年の間に何があったのか?
A. うむ…しいて理由を見出すとすれば、パク・グァンス監督の助監督をやっていた頃に作った短編映画が、海外の映画祭に何度も招請された。そのとき、パリに留まりながらベルリンなどヨーロッパのいくつかの都市と北アフリカを旅行したが、それが印象的すぎた。ヨーロッパの文化や人々に接しながら、韓国が非常に窮屈であるということを感じた。そのとき感じたことの一つが「今日学んだことを今日使うことはできない」ということだ。今日学んだことが自分の中に体化するまで、少なくとも2~3年はかかった。そういった視覚的衝撃と考えの変化が、『ビート』や『太陽はない』を作るのに多くの影響を与えたように思う。
Q. ヨーロッパの旅から2~3年後に作った映画が『ビート』だったということだが、自伝的な話が投影されていると聞いている。
A. 『ビート』で有名になると、友人達が私を自慢に思うようになった。それまでは「バカ野郎、お前が映画を作るだと?」とからかったものだが…『太陽はない』公開時、友人達をミョンボ劇場に呼んで観せてあげたことがある。映画を観た友人達が、口を揃えて「おい、なぜ俺が映画に出てるんだ」と言っていた。まったく…その映画の中に、私と友人達の姿があることは事実だ。
Q. 「知った上で行うべきだ」というような鉄則を持っているように思える。
A. 知っていても、上手く映画にすることは難しい。それでも自分が知っていることをやるべきだと思っている。
キム・ソンス監督「勝利の回数よりも、どんな種類の戦いをしたかが大事」
(2016-10-11)*以下のインタビューは、映画のネタバレを含みます。
Q. タバコを吸っても構わない。
A. タバコはやめた。健康になって映画に邁進するために。2005年8月16日にやめたので、かなり経つ。韓国芸術総合学校で教授をやっていた時だった。
Q. 教授としてのキム・ソンスはどうだったか。
A. 教授をやってはいけないと思った。(笑)映画が語りかける方式や話法は「当代の言語」を使うべきだと思う。今の時代の言語に密着している若くて才気あふれる子達に対し、過去から渡ってきた人が、私達の言語で映画を作ってみようと話すのは可笑しい事だと思った。
Q. 当代の言語というものは、必ずしも若者層の言語だけではないのでは?
A. 若者層の言語とは限らないが、とにかく映画というものは想像と夢の要素があるため、同じ話を同じ言語で繰り返すと観客は関心を持たない。私が幼い頃、兄がよく聴いていた音楽を好きだったが、『太陽はない』(1998)に収録された音楽が、そのときに聴いていた音楽だ。ところが中学校に上がると、その歌から前のように面白みを感じなくなっていた。その時は姉が聴いていたポップソングが好きだった。それから大学生になると、また音楽の好みが変わった。結局、音楽―映画のような大衆芸術は、その時代に合ったリズムで変奏した時、人々が耳を傾けるのではないかと思う。
Q. 思えば『ビート』(1997)があの時代の若者に爆発的に受けたのも、「当代の言語」を正確に突いていたからだと思う。『太陽はない』も同様だ。
A. しかし評価は芳しくなかった。(笑)
Q. 言われなくてもインタビューに来る前に調べてみたが、公開当時は評価が厳しかったという。
A. そうだ。時間が経つにつれ、徐々によくなった。
Q. 作品が時間に耐え、再評価されたわけだ。
A. 長く生き残る映画というものが存在すると思う。観客数によりその映画に対する評価が終わったかのように見えるが、ある映画はより長く生き、広く影響を及ぼす。特に映画監督達に影響を及ぼす映画がある。そんな映画を作る事が監督達の本当の夢だ。簡単に揮発せず、長く残像を残す映画。そんな映画は監督達に伝染し、映画作りについて熾烈に悩むようにさせる。
Q. あなたに影響を及ぼした監督の映画は何なのか。
A. サム・ペキンパーのほぼすべての映画。黒澤明の映画達。私に深く刻まれた映画達だ。一つだけ挙げろというなら、アンリ=ジョルジュ・クルーゾーの『恐怖の報酬』(1953)という映画だ。イヴ・モンタンが主演を務めた。『アシュラ』後半作業をしながら再び取り出してみたが、そのような映画を作れるならこの上ない栄光だろうと思った。
Q. 『アシュラ』に対する評価が極端に分かれているが、個人的にも、この映画も時間が経つほど愛されていくだろうと確信している。
A. そうなるとすごく嬉しい。『アシュラ』は成功の是非はともかく、個人的に私の夢を叶えた作品だ。これは私の人生の一作だからだ。既存の作品達と違い、今回は私が作品に深く溶け込みすぎてしまった。私を完全に投射した映画だ。この映画が人々にとって新鮮な衝撃になることを望みながら撮った。人々を揺るがしたかったし、良い意味で居心地悪くさせたかった。
Q. 良い意味で居心地悪くさせたかったというのは、具体的にどういう意味か。
A. よく見知っていることが、違う風に伝わってほしかった。観客達が映画を観て「これはなぜこうなんだ?」「ああ、こうだからこうなのか」という連鎖作用に見舞われてほしかった。実は、私自身もこういう話を書くためには少しばかり勇気が必要だった。「ここまでしていいのか?」と思った。今の俳優達がキャスティングされたとき、周りの人達が口を揃えて言っていた。「シナリオを書き直して、面白い映画にするべきじゃないのか?」と。一瞬「そうだ、本当にそうすべきなんじゃないのか?」と思ったりもした。しかしサナイ・ピクチャーズのハン・ジェドク代表がこう言った。「監督、この映画を本当に撮りたいですか?思ったとおりにやりたいですか?ならば有名な俳優達が来て、監督の周りでバリアを張る必要があります。そうすると投資を得て作品を世に出すことができます」と。夢の俳優達がキャスティングされたときはこうも言った。「最後まで行く作品を撮るために俳優達を呼び寄せたのですから、監督、揺るがないでください。本当にやりたいようにやってください」と。こんな製作者に出会えるとは。幸福な仕事だったとしか言いようがない。
Q. 話を聞いてみると、酷評についても十分に予想していたかのようだ。
A. 予想どころではなく、当然そのような評価をされるだろうと思っていた。しかし、観客は時間と金をかけて観た方々なので、そう言う資格がある。そして私がその批判を受けてもあまり気分を害しない理由は、少なくとも快感と楽しみとヒットのためにこの俳優達を消費してはいないと信じているからだ。私が考える価値ある物語を作るために、この俳優達の助けが必要だったのであり、共に熾烈に作り上げた。
Q. A級俳優達が奈落に向かって果敢に疾走する映画に出会うことは、忠武路では珍しい興味深い経験と言えそうだ。
A. 俳優達には感謝しきりだ。私よりもこの仕事を楽しんでくれた。そのため、自然と「チームワーク」が出来上がった。
Q. 『無頼漢』のオ・スンウク監督との対談(σ)で、あなたはこんなことを話した。「オ・スンウク式のノワールでは、決定的な事件そのものよりは、事件の波長で生じる人物の情緒的な揺れに注目する」と。その言葉をもじって質問するなら、「キム・ソンス式ノワールは、決定的な事件そのものよりは、人物同士の喰って、喰われる関係から派生する破裂音に注目」したかのようだ。
A. そうだ。『アシュラ』はストーリーのない映画だ。この映画に出てくるすべてのセリフはあっても、なくても構わないものだ。映画の中の誰一人として真実を話さないからだ。遠まわしな言い方や軽口、擬声語や擬態語のみを口にするときもある。だが、「人物と人物」の間で芽生えるエネルギーを撮ることがこの映画の核心だった。そのエネルギーを収めるためには人物達が絶えず衝突する必要があり、その動線が非常に大事だった。ハン・ドギョンがパク・ソンベ(ファン・ジョンミン)と葬式場で向かい合って座りコップを噛み締めるシーンは多くの動きを必要としなかったが、そのシーンを除く全ての部分で、人物達は動く必要があった。その動きをイ・モゲ撮影監督はキャラクターの動線を阻まない範囲で多角的に撮影し、照明監督は人物に光が当たる瞬間などを細分化させ、ミザンセンを設計した。
Q. 俳優達のきめ細かいリハーサルが必要だったのでは?
A. 作品に取り掛かる前に俳優達にお願いした。「1時間早く出てきてリハーサルをしてもらえないか」と。そう言うとファン・ジョンミンが「俳優が早く来てリハーサルをやるのは当然だ。演劇はワンシーンのために何ヶ月もやる。望むところだ」と話した。クァク・ドウォンとチョン・マンシクは元々演劇に慣れていてる人達だ。チョン・ウソンはもちろんOK!チュ・ジフンも最年少のメンバーとして自然とついてきた。最初は本当に俳優達が1時間ずつ早めに来て練習をしたが、撮影を重ねるにつれその時間が30分に減り、後になると練習はほとんど必要なくなった。俳優達が私より人物をよく見ているので、あえて私がディレクティングする必要もなかった。監督として不思議な経験だった。
Q. チョン・ウソンは多くの人々が認めるジェントルなイメージの俳優だ。そんなチョン・ウソンを悪の極限まで追い込む映画だ。俳優個人としても、彼をよく知る監督の立場からも既存のイメージをひねりたいという欲求があったのでは。
A. この映画に登場する人物達がすべて怪物だとすれば、ハン・ドギョンは比較的、「半人半獣」に近い存在だ。唯一、反省し、苦悩するからだ。そのイメージによく合うだろうと思った。ならばハン・ドギョンはいかにして奈落への歩みを進めるか。巨大な悪人達の前で主人公が立ち向かう唯一の方法は、自らを消滅させながら引き金を引くしかないと考えた。悪の世界で悪党達を全滅させる事はできないからだ。
Q. 悪党を全滅させる事はできないのか。
A. どうしてできようか!今の私達の周りを見てくれ。悪の前で手も足も出せていない。時代が悪に染まるとその時代の人々も伝染するようだ。近頃〇〇〇大(訳注:梨花女大=梨花女子大学)事件を見て改めて感じた。教授達が学生達を見捨てるのを見て「もう教授もただの職業人か。職業に害となる行動は一切しないのだな」と思えて、やるせなかった。
Q. 善なる本性を持つ人ならば、環境に打ち勝てるのではないか。
A. 私は人間は悪でも善でもないと思う。善と悪の間を行き来しつつ、煩悶しながら生きるのが人間だ。ただ、善が通用し、尊敬される時代においては、子供達もより善良な子になるために努力するはずであり、他人を踏み躙って勝利することでセールス王となる社会では、人も悪の方へ進むと思う。「奪われる側に回るのは愚かだ。勝つべきだ。そうすると残りの99名がお前の犬-豚になる」と教える社会で、子供達は何を見て感じるだろう。
Q. 『アシュラ』は色々と興味深い映画だが、狭く使用した空間が印象的だった。人物達を狭い空間に閉じ込めるような印象を覚えた。
A. それが今回の作品のメインコンセプトだった。厳密に言って『アシュラ』は葬式場に悪人5人を閉じ込める映画だ。葬式場へ行くまでの旅程だ。最初は広い空間を見渡すが、徐々に狭くて密閉した空間へと入る。狭くて暗く、果てが知れない場所を進みゆくと葬式場に出くわす構造となっている。それから、最初にアンナムという仮想の都市には昼と夜が共存する。しかし、進めば進むほど昼の頻度が減っていく。夜と昼の境界が消えていき、カーアクションの後は夜だけが存在する。さらに窓も閉まってしまう。窓の外は無意味な空間となり、葬式場を訪れると、窓すらも完全に消える。
Q. 閉じた扉へ向かう映画というわけだ。カメラアングルといい、美術、照明、編集、それらが総力を挙げて観客を崖っぷちにまで追い込む。
A. そうやって世界の果てまで追い込まなければ、主人公は自らの主に噛み付かない。観客が一度は地獄を経験してみることを望んだ。それで、俳優達が言っていた。「これは少し精神を病ませる映画のような気がする」と。(笑)
Q. 『アシュラ』の暴力が強烈に感じられるのは、その表現の強さよりも、暴力を展示する仕方のせいだという気もした。人物達を収めるビジュアルも一風変わっている。
A. 編集ポイントをズレさせた。多くのアクション映画での暴力は、観客がカタルシスを感じる方に重点をおいて撮影する。そのため、主人公の正義感は表現するが、殴られる悪党の表情や苦痛を人格的に表現したりはしない。ルールと慣習に従って撮れば快感が増幅するが、そのようなポイントを全て避けた。この映画は善の暴力が悪の暴力に勝つのではなく、暴力の世界に封じ込められた人間達が暴力的な関係を結んで壊滅する話だからだ。ホ・ミョンヘン武術監督とイ・モゲ撮影監督に、その感覚が上手く伝わる方式を探してほしいと頼んだ。
イ・モゲ監督が気にしたのはカメラの位置だ。たとえばハン・ドギョンが棒切れ(キム・ウォネ)の顔を殴るときのアングルは、実はあまり使われない角度だ。打撃を受ける人のみならず、殴る人の瞬間的な反応もすべて撮るので、より強烈に見える面もあるはずだ。チョン・ウソンがキム・ウォネを叩くのは嘘ではない。ウォネさんの顔に保護装備などを付けて撮り、その後、それをCGで消した。サウンドもゾッとするような音を選んで使った。
Q. そういった執拗なシーンを作り上げるのは容易ではなかったはずだ。会議も多かったのではないか。
A. 多かった。雨を降らせて撮ったカーアクションの場合、カットを分けて撮らなかった。編集ポイント以上の、感情が暴走する瞬間までも収めようとした。撮影の仕方について、物凄い数の会議を重ねた。難関が多すぎたので、ふと「ここまでしていいのか」と思ったりもしたが、そのたびにスタッフ達が「監督、これが我々のコンセプトなのですから、やるべきです!」と言った。また誰かが「監督、ここはもうカットを分けましょう!」と言うと、そのときは私の方が「いや、それでも何とか方法を探してみよう」と言って、ここまで来た。そうして私達の悪意に満ちた意図を全て活かし、観客を最後の葬式場まで追い込みたかった。
Q. 最近『ビート』を再鑑賞した。改めて、20年前の映画なのにアクションがかなり強烈だと感じた。
A. 楽しく撮った映画だ。チョン・ドゥホンが武術監督を務めた映画でもある。
Q. そのチョン・ドゥホン監督の弟子達と『アシュラ』を撮ったわけだ。(笑)
A. チョン・ドゥホンという人を取り除けば、韓国映画の系譜は成立しなくなるのだ。(笑)
Q. 『ビート』はチョン・ウソンの青春を思い出させる映画だが、キム・ソンス監督の青春が宿る映画でもある。
A. 当時36歳だったはずだ。デビュー後の2作目の映画なので、私の青春の記憶が色鮮やかに残っている時期なのは確かだ。今となっては古すぎる記憶だが、あの時は自分でも若いと思っていた。
Q. パク・グァンス監督の演出部の出だと聞いている。当時の話が聞きたい。
A. 韓国映画ニューウェーヴの第1世代としてよく挙げられる3人の方が、パク・グァンス ― チャン・ソンウ ― イ・ミョンセ監督だ。その方々の子孫が広まって映画を作っていることになるが、私はパク・グァンス監督の弟子だった。パク監督の弟子も少し分かれるが、私と同門だったのはイ・ヒョンスン ― ヨ・ギュンドンだ。私達の次の世代がホ・ジンホ ― オ・スンウク ― パク・フンシク ― イ・チャンドン ― チャン・ムンイル監督などだ。パク監督は弟子達によくしてくださる方だった。頻繁に会い、酒を飲みながら話し合った記憶がある。今もパク監督は、弟子達の映画の現場に必ずお越しになる。
Q. パク・グァンス ― チャン・ソンウ ― イ・ミョンセ派(?)のそれぞれの特徴があるだろうと思う。大衆には読み取れない特徴が。
A. 映画のスタイルは皆、少しずつ違うが、同じ方から学んだため、作業方式などにおいて類似性がある。私達が集まればこう言う。「おい、お前、監督とポーズがそっくりだな!」「兄貴だってそっくりだろ!」(笑)
Q. 2003年の『英語完全征服』から2013年の『風邪』まで、演出の空白期間が長かった。
A. その間、製作も行い、中国に渡り中国映画も作った。
Q. 考えてみると、あなたは本当の中国進出第1世代だ。
A. それにおいては第1世代だ。(笑)1999年度に中国へ映画を撮りに行くと言ったとき、皆が反対した。正気じゃないとまで言われた。私から見ても厳しい状況だった。それでも当時は若さと覇気があったため、やるといったら最後までやった。その年の11月だったか…妻に「中国へ行くつもりだが、いつ帰ってこられるか分からない」と言って、助監督と製作部を連れて中国へ行き、部屋を借りて暮らした。そうして2000年の夏、『武士』を中国で撮った。
Q. 中国のどういった面にそこまで惹かれたのか。
A. まず、料理が美味しすぎる。(笑)二つ目は、私が幼い頃に近所で見かけたおじさん、お兄さんやお姉さんのような方々が、皆、そこに暮らしていた。社会主義の社会は短所が多いが、長所も多い。人々が謙虚で、序列がない。資本主義の欲望に毒されすぎていないのだ。私が主に地方都市でロケハンを行ったせいか、そういった雰囲気をより強く感知したようだ。そして中国は、私達が幼い頃に古典として読んだ「三国志」「道德経」といったものの本場ではないか。源流があるところだから、それがよかった。『武士』を撮って韓国に戻り、韓国芸術総合学校の教授を始めたが、その時、韓国の学生と中国の学生の交流があった。それをきっかけに再び中国を行き来する過程で、中国に会社を作ってしまった。ジャンシャアという当時一緒に組んだ女性代表は、このたび『密偵』の中国プロデューサーも務めた。
Q. 中国で作った製作会社(北京ナビ・ピクチャーズ)は…
A. 木っ端微塵だ。準備していたプロジェクト達が全て上手くいかなかった。完全に潰れて畳んでしまった。(笑)涙もたくさん流した。近頃韓国と中国が組んだプロジェクトが増え、いろんな連絡が来るようになったが、すべて断った。愛憎があるのだ。監督としてでなければ、再び北京へ行くことはなさそうだ。失敗はしたが、素敵な時間だったと思っている。私の若かった時期の一部をそこに埋め、思い出が残っているのだから。
Q. あの頃の思い出が残した意味があるはずだ。
A. もちろんだ。(体を前のめりにして)記者さん!私は成功も失敗もしてみたが、成功は甘いが大して役に立たない。失敗すれば誰も失敗の理由を聞かないし、マイクを突きつけられもしないが、その代わり、多くのことを学ぶようになる。コメディアンのキム・グクジンが以前こんなことを話した。成功すれば「少し」分かるようになると。多くの人がどうやって成功したのかを聞くと。その反面、失敗をすると「すべて」分かるようになる。しかしそのときは誰も質問してこない。(一同嘆息)人が悟りの段階へ向かうには「失敗の階段」を踏む必要があると思う。
Q. 最初から完成されている人間は多くないのだから。
A. 天性の者達もいるはずだ。そんな天才達を除き、それ以外の人々はどういう経験をして進むかにかかっていると思う。劉備と曹操の成長譚でもある「三国志」を見ると、二人は絶えず戦争を行う。しかし二人が戦争で勝った回数はそう多くない。敗北の経験の方がむしろ多い。そんな二人を見ながら思った。勝利の回数が大事なのではなく、どのような種類の戦いをするかが、その人の「今」を作るんだと思う。映画も同じだ。ヒットした作品に出演した俳優ではなく、良い作品で苦闘した俳優達を私達は認めるではないか。
Q. どんな気持ちで『アシュラ』を作ったのかがピンと来た。
A. 人に褒められる、ヒットする映画を撮ろうとしたこともあった。しかしそれが上手く行かないと、その虚しさを補う術がなかった。「次の映画は私が後悔しない映画」を撮りたかった。それが『アシュラ』だ。『アシュラ』は私が私自身に対して恥じないことを願いながら撮った映画だ。
Q. 長い間、映画と共に歩んできた。環境が変わっても、演出者として守り通したいものがあるとすれば?
A. あまりにも多くの誘惑と無駄な欲望に時間を使いながら過ごしてきた。監督としての私にどれだけの生命と機会が残っているか分からないが、私の歌いたい歌―私が知っている音程で物語を作ることに時間を注ぎたい。